1995年8月23日。この日は、世界の音楽史、そしてMariah Carey (マライア・キャリー)という一人のアーティストの歩みにおいて、決定的な転換点となった。5枚目のスタジオ・アルバム『Daydream』からのリード・シングルとして放たれた「Fantasy」は、単なるメガヒット曲という枠を超え、90年代のポップスとR&Bのあり方を根本から変えてしまった金字塔である。
この曲がどのようにして生まれ、なぜ今もなお色褪せないのか。その背景には、マライアの鋭い直感と、アーティストとしての「覚醒」の物語がある。
Mariah Carey – Fantasy (1995)
「Genius of Love」との出会い:直感から始まった革新
すべては、マライアが車の中で聴いたラジオから始まった。流れてきたのは、Tom Tom Club (トム・トム・クラブ)が1981年に発表した名曲「Genius of Love」の軽快なフックだ。彼女はその瞬間、「このサンプルを自身のポップ/R&B楽曲に融合させる」という鮮やかなアイデアを思いつく。
「あの曲を聴いた瞬間、頭の中でメロディが自然に浮かんできた」と彼女は後に語っている。当時、80年代のニューウェーブをサンプリングしてポップスに仕立てる手法は、決して一般的ではなかった。レコード会社側はこの大胆な試みに慎重な姿勢を見せたが、マライアは「今の自分に必要な音はこれだ」と強く主張し、自ら制作の主導権を握った。
このサンプリングにより、元曲の作者であるTina Weymouth、Chris Frantz、Steven Stanleyらが共作者として名を連ねている。
Tom Tom Club – Genius of Love (1981)
制作の舞台裏:指揮者としてのマライア

プロデューサーに迎えられたのは、R&Bシーンで頭角を現していたDave Hallだ。しかし、スタジオの空気を支配していたのはマライア自身のビジョンだった。Daveは「彼女はすでに完成形を頭の中に持っていた」と述懐している。
マライアはメロディやハーモニーの細部から、ボーカルのレイヤーの重ね方に至るまで自らディレクションを行った。それまでの彼女を象徴していた重厚なバラード路線から一歩踏み出し、都会的でヒップホップ色の強い、軽やかなグルーヴを追求したのだ。「深刻になりすぎない、跳ねるような恋の気持ちを描きたかった」という彼女の言葉通り、ポップ、R&B、ファンク、ダンス・ポップが絶妙なバランスでブレンドされたサウンドが完成した。
「幻想」という名の歌詞世界
「Fantasy」というタイトルの通り、歌詞のテーマは「現実には成立しない関係を、頭の中で熱烈に夢想する女性」だ。一見すると甘くロマンティックなラブソングだが、そこには「夢の中でしか許されない恋」というどこか切ないニュアンスが潜んでいる。
「Sweet, sweet fantasy baby」というリフレインは、幸福感に満ち溢れていると同時に、それが手に届かない“幻想”であることを暗示する。90年代当時のリアルな恋愛描写とは一線を画す、浮遊感のある世界観が構築されている。
歴史を塗り替えたチャートの衝撃

リリースの反響は、文字通り爆発的だった。アメリカのBillboard Hot 100において、史上初となる「初登場1位」を記録し、同時に女性アーティストとしても初の快挙となった。そのまま8週間連続でトップを独走したこの記録は、彼女が単なるスターから、音楽シーンのルールを書き換える存在になったことを証明した。
勢いはアメリカに留まらず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドで1位を獲得。世界20カ国以上でトップ10入りを果たした。メディアは「マライア・キャリーが自らを再定義した」と絶賛し、彼女のボーカルと進化したプロダクションに惜しみない賛辞を送った。
禁断のクロスオーバー:Bad Boy Remixの衝撃
「Fantasy」を語る上で避けて通れないのが、Wu-Tang ClanのOl’ Dirty Bastard(O.D.B)をフィーチャーした「Bad Boy Remix」の存在だ。Sean “Puff Daddy” Combsが中心となって手がけたこのバージョンは、オリジナル以上にヒップホップ色が濃い。
当時、マライアのような一線級のポップスターが、アンダーグラウンドのラッパーと組むことは極めて異例であり、レーベル側は猛反対した。しかしマライアは「彼しか考えられない」と譲らなかった。O.D.Bの荒々しく奔放なラップと、マライアの完璧なコントロール。この一見正反対な要素の融合は、後の音楽界における「ポップとヒップホップのクロスオーバー」の雛形となったのである。
Mariah Carey feat. O.D.B. – Fantasy Remix
自由を謳歌するビジュアルとライブ
ミュージックビデオにおいても、マライアはBrett Ratnerと共同で監督を務めるという挑戦に出た。
自ら監督を務めるという挑戦に出た。遊園地でローラーブレードに興じ、無邪気に笑う彼女の姿は、これまでの「完璧に作り込まれたディーヴァ像」を脱ぎ捨て、一人の女性としての自由を表現していた。彼女自身、「初めて自分らしく楽しめた撮影だった」と語っている。
また、23回アメリカン・ミュージック・アワード(AMA)などのテレビ出演やワールドツアーを通じ、彼女はその圧倒的な歌唱力とキャラクターを世界中に刻み込んだ。
永遠に続くレガシー
「Fantasy」の魔法は、30年近い時を経ても解けることはない。サンプリング元の「Genius of Love」は、マライアのヒットによってさらに広く知られることとなり、その影響は2021年にLatto(ラト)が発表した「Big Energy」にも引き継がれた。マライア自身がそのリミックスに参加したことは、彼女の音楽が世代を超えて愛され続けていることの何よりの証左だ。
歌唱力だけで評価されていたマライア・キャリーが、自らの美意識とプロデュース能力でシーンを動かした瞬間。その軽やかなメロディの裏にある、アーティストとしての強い意志こそが、「Fantasy」を不朽の名作たらしめているのである。



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