Michael Jacksonの「Wanna Be Startin’ Somethin’」は、1982年リリースのアルバム『Thriller』のオープニングを飾る6分3秒の超弩級ファンクトラックだ。元ネタはカメルーン人サックス奏者・Manu Dibango が1972年にリリースした「Soul Makossa」——エンディングで繰り返されるあのアフリカのチャント「ma ma se, ma ma sa, ma ma coo sa」は、無断引用をめぐってMJが訴訟を起こされ1986年に100万フランで和解するという騒動を生んだ。
全米最高5位・カナダ首位・オランダ首位を記録し、Thrillerから4枚連続トップ10入りを達成。さらにRihannaが「Don’t Stop the Music」でそのチャントをサンプリングしたことで訴訟が再燃するなど、このたった一曲をめぐる物語は半世紀近く続いている。
🎧 クイック概要:10秒でわかる基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| アーティスト / 曲名 | Michael Jackson / Wanna Be Startin’ Somethin’ |
| 収録アルバム | Thriller(1982年)/シングルは1983年5月9日リリース |
| サンプリング元(インターポレーション) | Manu Dibango – Soul Makossa(1972年) |
| 最高位 | 米Billboard Hot 100:最高5位 / カナダ:首位 オランダ:首位 / 英国:最高8位 |
そもそもこの曲は妹・La Toyaのために書かれた

まず驚くべき事実から始めよう。「Wanna Be Startin’ Somethin’」はもともと、マイケル自身のために書かれた曲ではない。
マイケルがこの曲を書いたのは1978年のことで、当初は妹のLa Toya Jacksonのために書かれたとされている。La Toyaが兄弟たちの妻、つまり義理の姉妹たちとの間で抱えていた軋轢と摩擦を、そのまま曲にしたものだ。しかし結局マイケル自身がレコーディングし、La Toyaは自分のために書かれた曲を兄に録られるという結末になった。それでもLa Toyaは今でもコンサートでこの曲を歌い続けている。
最初の録音は1978年11月、クインシー・ジョーンズとのセッションで行われた。当初は前作『Off the Wall』(1979年)への収録が検討されたが、収録には至らなかった。このときのデモは2009年の死後作品集『This Is It』のボーナストラックとして初めて世に出ることになる。
その後、1982年秋にウェストレイク・レコーディング・スタジオで本格的に再レコーディングされ、Thrillerの1曲目の座を射止めた。
なぜこの曲がThrillerの1曲目でなければならなかったのか

アルバムの冒頭にこの曲を置いたのは、偶然ではない。
クインシー・ジョーンズとマイケルは1982年4月から11月にかけて、制作費75万ドルをかけてウェストレイク・レコーディング・スタジオにこもり、30曲以上の候補から9曲を厳選してThrillerを仕上げた。その中でこの曲がアルバムの「顔」——つまり1曲目——に選ばれたのは、その圧倒的な引力ゆえだ。
6分3秒にわたって疾走するこのトラックは、再生ボタンを押した瞬間にリスナーをダンスフロアに引きずり込む。ローリング・ストーン誌のChristopher ConnellyはこれをThrillerの「最も闘争的なトラック」と呼び、感情があまりにも生々しくほぼ制御不能になりかけているとしながら、コンサートでマイケルを見るよりも予測不能なほどエキサイティングだと評した。Cash Box誌は「ダンサブルなグルーヴと見事なアレンジを持つスマッシュヒット」と絶賛した。
元ネタ「Soul Makossa」——アフリカ発のチャントがニューヨークに漂着するまで
「ma ma se, ma ma sa, ma ma coo sa」——この呪文めいたチャントを聞いたことがない人は、ほとんどいないだろう。
これはカメルーン人サックス奏者・Manu Dibango が1972年にリリースした「Soul Makossa」からの引用(インターポレーション)だ。「Soul Makossa」はもともと、アフリカカップ・オブ・ネイションズ(1972年)でのカメルーン代表チームを称える曲のB面として録音されたもので、カメルーンのドゥアラ語によるチャントを含んでいた。
この曲がアメリカに辿り着いたのは、ひとりのDJの偶然の発見がきっかけだ。ニューヨークのDJ・David Mancusoがブルックリンの西インド系レコード店でこのレコードを掘り当て、マンハッタン・SoHoの自宅で開いていた伝説的なプライベートパーティー「The Loft」でかけ続けた。口コミで火がついた曲は大西洋を逆流し、Atlantic Recordsが1973年にアメリカで正式リリース。するとすでに少なくとも23グループがカバーを発表しており、9バージョンがBillboard Hot 100に同時チャートインするほどの大ブームになっていた。
その後「Soul Makossa」は史上最もサンプリングされたアフリカ発の楽曲となる。マイケルがThrillerでチャントを引用したことで、そのリーチは一気に地球規模になった。
なぜマイケルはアフリカ音楽に心を奪われたのか

マイケルがアフリカ発の音楽に強い親しみを感じていた背景には、少年時代のある旅がある。
1974年、Jackson 5はセネガルに渡航した。当時まだ10代だったマイケルは、ダカールの空港を降りた瞬間のことをEbony誌のインタビューでこう語っている。
「飛行機から降りると、長い列のアフリカのダンサーたちに迎えられた。ドラムとその音が空気をリズムで満たした。俺は興奮して叫んだ——『そうだ!彼らはリズムを持っている……これだ。ここが俺の来た場所だ。起源だ』」
マイケルは他の楽曲でサンプリングやインターポレーションをほとんど行わなかった。だからこそ、唯一「Soul Makossa」からチャントを借用したという事実が、この曲に対するマイケルの特別な感情を物語っている。
Dibango、訴訟と100万フランの和解
Manu Dibango は「Wanna Be Startin’ Somethin’」のリリース後、マイケルを著作権侵害で提訴した。マイケルはチャントを引用したことを認め、1986年に100万フランで裁判外和解した。
ここまでで話は終わるはずだった——が、そうはならなかった。
Rihanna登場で訴訟が再燃:「Don’t Stop the Music」騒動

2007年、リアーナが「Don’t Stop the Music」をリリースした。このシングルはマイケルの「Wanna Be Startin’ Somethin’」からあのチャントをサンプリングしていた。
リアーナはマイケルに使用許可を申請し、マイケルはこれを承諾した。ところが、マイケルはManu Dibango への事前連絡をしていなかったとされる。
2009年2月——マイケルの死のわずか4ヶ月前——Dibango は今度はマイケルとリアーナの両方をパリで提訴した。弁護士はSony BMG・EMI・Warner Musicに対し「mama-say mama-sa」関連の収益受け取りを差し止めるよう求め、損害賠償として50万ユーロを請求した。
しかし今回の裁判はDibango の敗訴で終わった。2008年にDibango がリアーナの楽曲に対する作曲者クレジットの申請をすでに成功させていたことが判明し、裁判所はそれをもって権利上の問題は解決済みと判断し、訴えを退けた。
Manu Dibango は2020年、COVID-19による肺炎で86歳で亡くなった。「Soul Makossa」は今も史上最もサンプリングされたアフリカ楽曲の座にある。
リアーナの「Don’t Stop the Music」記事はこちら。
歌詞を読む:ゴシップへの怒り、「野菜」の謎、そして自己肯定
「Wanna Be Startin’ Somethin’」の歌詞は、一曲の中にまったく異なる感情が混在する奇妙な構造をしている。
第一のテーマはゴシップへの怒りだ。「誰かが常に私の赤ちゃんを泣かせようとしている」「Billie Jeanはみんなが黙っているときでも喋り続ける」——身近な人間関係で感じた悪意ある噂話への憤りがそのまま歌詞になっている。「Billie Jean」という名前がここにすでに登場していることも注目で、同名の曲が世に出る前から、マイケルの頭の中にはこの人物像が存在していた。
第二のテーマは社会問題だ。「赤ちゃんを養えないなら産むな」という直接的な訴えは、当時のアメリカにおける貧困層の子育て問題を指していると解釈されている。ポップスターらしからぬ、踏み込んだ内容だ。
最も謎めいているのが「You’re a vegetable(あなたは野菜だ)」というラインだ。「You’re just a buffet, they eat off of you(あなたはビュッフェだ、彼らはあなたを食い物にしている)」という前後の歌詞が示すとおり、メディアや噂話によって食い物にされているという意味で使われているスラングだ。
そしてすべての怒りと問いは最後、「Lift your head up high(高く頭を上げろ)」という力強い自己肯定へと転換し、アフリカのチャントへとなだれ込む。怒り・社会批判・肯定の三段構造が、6分という長さを少しも飽きさせない理由のひとつだ。
チャート記録:Thrillerの第4弾シングルとして
「Wanna Be Startin’ Somethin’」は1983年5月9日にシングルとしてリリースされ、Thrillerから4枚連続でBillboard Hot 100トップ10入りを達成した。
- 米Billboard Hot 100:最高5位
- カナダ:首位
- オランダ:首位
- 英国シングルチャート:最高8位
Thriller全体ではBillboard Top LPs & Tape chartで37週(非連続)首位という史上最長記録を樹立し、グラミー賞8部門受賞、全世界推定7000万枚以上を売り上げた。史上最高売り上げアルバムの地位は今なお変わっていない。
生前最後のシングルは、この曲のリメイクだった
2008年、Thriller発売25周年記念盤「Thriller 25」のリリースに合わせて、「Wanna Be Startin’ Somethin’」が新たに録り直された。
2007年11月、ラスベガスのPalms Studiosで収録されたこのバージョンは、Akon(エイコン)が共同プロデュースした「Wanna Be Startin’ Somethin’ 2008 with Akon」としてリリースされた。Thriller 25の第2弾シングルとして発表されたこの曲は、マイケルが生前にリリースした、完全に新しいボーカルを収録した最後の曲となった。
ライブでの「Wanna Be Startin’ Somethin’」——全ツアーで外せなかった理由
この曲がマイケルのライブで欠かせなかったのは、オーディエンスを掴むための最強の武器だったからだ。
初めてライブで演奏されたのは1984年のVictory Tour(兄弟たちとのJacksons名義)で、そのオープニングナンバーを務めた。その後ソロアーティストとしての全ツアー——Bad World Tour(1987〜1989年)、Dangerous World Tour(1992〜1993年)、HIStory World Tour(1996〜1997年)——すべてで演奏された。
2001年9月7日と10日、ニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンで開催されたソロ活動30周年記念コンサートでは、この曲のパフォーマンスがあった。7日はUsher・Mya・Whitney Houstonが、10日はUsher・Mya・Deborah Coxがマイケルの目の前で披露した。
2009年のThis Is Itコンサートシリーズ(ロンドンのO2アリーナで予定されていた50公演)でもオープニングナンバーに据える計画だった。2009年6月23日、スタプルズセンターでのリハーサルがマイケルにとって最後のパフォーマンスとなった。その映像はドキュメンタリー映画『This Is It』に収められている。
まとめ:一つのチャントが、地球を何周もした
「Wanna Be Startin’ Somethin’」は単なるアルバムの1曲目ではない。
妹のために書いた曲を自ら録り直し、アフリカの音楽への愛を込め、許可なきチャントの引用が訴訟を生み、100万フランで和解して、世界史上最も売れたアルバムの幕を開けた。1978年のデモから1982年の完成まで4年かけて育ったこの曲は、リアーナを通じて2007年に世界を再び席巻し、マイケル死去の直前まで彼自身がステージで歌い続けた。
Manu Dibango が1972年にカメルーンで鳴らしたチャントは、ブルックリンのレコード店からマンハッタンの地下パーティーへと渡り、マイケルのThrillerで地球規模に広がり、リアーナを経てさらに次の誰かへと連鎖し続けている。
音楽の旅に、終着点はないのだと、この曲は教えてくれる。
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